書きたい、書けない、「書く」の壁

最近は日本語関係の本が続いています。この後に読んでいる本もそうです。
いろいろなところから集められたエッセー集のようです。
内容はこんな感じ(目次より)。

日本語があぶない(丸谷才一

【先生の国語は大丈夫?】
小6不用漢字で作文を書くと(嵐山光三郎
数学者の国語教育絶対論(藤原正彦
IT時代の「活字能力」(板坂元)
対談・教師の日本語力を問い直す(水谷修・西尾珪子)

【がんばれ日本語】
外国語になった日本語(熊倉功夫
漢字をつかわない日本語へ(野村雅昭
国際化する漢字(松岡榮志)
漢字と仮名は縦書き文字(石川九楊
対談・漢字の魅力が、日本語の魅力。(辰濃和男道浦母都子

【ちょっと専門的でためになる漢字のはなし】
コンピューター化で漢字はどうなる?(高田時雄
隠語としての漢字(木村岳雄)
対談・日本語になった漢字(白川静道浦母都子
読み書き並行論(井上ひさし

【おとーさん、知らないの?】
トークショー・変体少女文字から携帯ギャル文字へ(松永真理藤井青銅高橋源一郎稲増龍夫
「矛盾」と書けない大学生(内田樹
日本人がよく間違える日本語の使い方(兼子盾夫)
「当て字」の話(川嶋秀之)
日本語を“数える”(清水康行)

【キーボードだよ人生は】
ペンからキーボードへ(阿辻哲次
対談・文章を楽しむ書き方、読み方(轡田隆史・樋口裕一)
対談・字引は楽しい!(山田俊雄俵万智

コトバについての三つの質問(奈良美智

特にうんうん頷きながら読んだのは「小6不用漢字で作文を書くと(嵐山光三郎)」と「読み書き並行論(井上ひさし)」か。どちらも小学校の漢字教育の問題について書かれている。問題は各学年ごとに学習する漢字を割り当て、そこに含まれない漢字は使ってはいけないことになっていることだ。その結果、習わない漢字はひらがなに置き換えられ(「交ぜ書き」というらしい)、意味がとりにくい、読みにくい文章になってしまっている。どれだけ読みにくいか、これは絵本を読み聞かせしてみればすぐにわかる。さらに、この書き換えは著者にも失礼なことなんじゃないだろうか?他のエッセーには著者が真剣に文字を選んでいることが書かれているものもある。教科書の文章はこのセンスをすべて消してしまっているわけだ。
なんでこんなことが行われていますのか。たぶんエリート役人や専門家といわれる人たちは一般人を見下しているのだろう。「お馬鹿のために、誰にでもわかる・つかえる簡単な日本語を作ってあげよう」なんてことを考えちゃったのだろう。だから難しい漢字は(意味が変わってしまってもいいので)簡単な文字に置き換える。書けない漢字は、読むのも間違えるだろうから使わないようにしよう。みたいなノリで。
読めるけど書けない漢字なんて誰にでもたくさんある。さらに漢字で書いてあれば読めなくても意味が類推できることもある。それを否定してひらがなを使いましょうと強制することにメリットはあるのだろうか。いつのもことながら文部省のお役人と専門家のやることには頭を抱えてしまう。しかも被害を受けるのは子どもたちなのだから救われない。
最後に「日本語があぶない」と書いている丸谷才一さんの提言を引用します。

 今、しなくちやならないのは、ゆとり教育を即刻やめて、日本語の時間数を増やすこと。小学校、中学校で日本語教育を徹底的にやること。それで日本語の読み書きの能力が増せば、他の科目だつておのづから力がつく。本を読み、文章を書く力がつけば、それによつてほかの本だつて読める。
 そのための時間数が足りないなら、土曜日を休みにすることを廃止しても日本語教育に力を入れなきやならない。
 ここでぼくは文部省と日教組に言ひたい。今まで文部省と日教組は、
 一、国家と国旗といふ瑣末事で争ふこと。
 二、日本語教育を疎かにすることで同調すること。
 三、ゆとり教育といふ重大な失敗で同調すること。
の三点において長いあひだ、共犯関係にあつた。この共犯関係を即刻やめてもらひたい。これが現在の日本が直面してゐる最も重大な問題だとぼくは思ひます。